"好き"を信仰し、他を排除するリスク。そこから考えた、僕らが創る新メディアの責任と期待。

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「事実というものは存在しない。あるのは解釈だけだ。」

  

 

ドイツの有名な哲学者、フリードリヒ・ニーチェが遺した言葉です。この言葉は近年になって、政治的な局面でよく引用されてきました。

 

 

きっかけは2002年、イラク武装勢力によって日本人3人が拘束された「イラク日本人人質事件」だった。カタールにあるアルジャジーラ・テレビに間借りしながら2週間にわたって取材をした際、お世話になったアルシャイーク報道局長から連絡があり、私は2004年7月に開催された「イラク戦争報道」をテーマにしたアルジャジーラ主催の国際会議に参加した。全世界のジャーナリストが集まったその会議でもっとも印象的だったのが、会議も後半にさしかかったころマイクを持ったアメリカのFOXニュース記者の質問だった。

 

「おまえたちは毎日嘘ばかり垂れ流しているじゃないか」

彼はステージ上にいるアルシャイーク局長に噛みついたのだ。世界同時多発テロ以降、ブッシュ政権を支持し続けていたFOXにとって、中東側の立場から情報を発信し続けるアルジャジーラは目障りだったのだろう。挑発的にアルジャジーラの報道批判をするFOXの記者に対し、アルシャイーク局長はこう答えた。

「真実というのは、人種、価値観、文化的背景で姿を変えます。いったい何が真実なのか。それならば、ひとつの意見には、必ず別の意見があるということを伝え続けるべきだと考える。それが私たちの報道姿勢です」

 

その時、会場全体から大きな拍手が沸き起こった。世界中から集まったジャーナリストが賛同したものが「異見」だった。

この時のことを私は最近、よく思い起こします、と私はドキュメンタリー映画監督の森達也さんに語った。今月発売された角川書店の「本の旅人」で、森さんと2時間近くにわたり対談をしたときのことだ。フェイクニュースとメディアの問題をテーマに、何が「フェイク」で何が「トゥルース」なのか、「ポスト・トゥルース」と言われる時代に、我々報道する側はどう対応していくのかについて議論したのだが、その中で森さんの指摘が興味深かったのだ。

 

「・・僕がもうひとつ懸念しているのは、フェイクという概念が強くなることで、これに対峙するトゥルースの概念もまた強くなることです。(中略)だって、トゥルースも実は相当に危ないと思う。だってトゥルースは相対的な概念だから。ニーチェの言葉を借りれば『事実はない。あるのは解釈だけだ』ということです」

 

引用:ハフィントンポストより

 

(実際に現在の国際問題について明るいわけではないので、引用のことについて触れることはしません。申し訳ない…。また、このニーチェの言葉、今回自身が関わってきたBoy.に対する内省をする際に参考にさせていただきました。)

 

 

 

僕たちが得る情報の根っこには、自分が足を使って入手した情報ではない限り、メディアが存在しています。

 

たとえばある問題について自分の意見を持とうとするとき、僕たちはメディアから情報を得て、自分の考え方・意見を作り上げていくでしょう。なぜなら僕たちが世の中で起こっているすべての問題に目を向け、その是非を判断することは、100%不可能だからです。

ゆえにメディアに情報の取捨選択の判断を託し、キュレートされた情報だけを咀嚼して、自身のモノの見方を作っていく。

 

しかしです。そのメディアという存在も、慈善事業ではないために金や権力の利害関係が複雑に絡み合い、完全に中立な立場での情報発信は不可能といっていい。

 

 

ある立場から見て正しい事実があったとしても、その事実が金や権力を持つ誰かに不利な内容であれば、息がかかっているメディアは彼に不利にならない報道を行うことがあります。

このとき、批判的思考のない人々はメディアの権威性を素直に信じるでしょう。結果、そのような人々が多ければ多いほどその加工された事実は大衆の考え=世論となっていき、その文脈での”正しい事実”となります。

 

 

これはつまり、大衆のなかに存在する各人がある事象について知り、考え、結論を見出す際、当人はAというテーマに対して持つ意見を自らの知識を動員し紡ぎ出したものとして捉えているものの、それすらも実際はメディアや広告代理店に代表されるプロパガンディスト(現代の広報担当者)によって醸成された”環境”という名の周到かつ緻密に考案された戦略のもとに形成された意見であるという話です。

 

 

 

情報は、第一次情報を発信するメディアのフィルターを通すことで如何様にも形を変え、大衆に色眼鏡をかけていきます。

このとき、誰がそのニュースの裏にいるのかということを大衆は強く意識する必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

この状況がよりリアルに感じられる事象として挙げられるのが、現代の「ポスト・トゥルース」。

 

僕たち20代は幼い頃から情報過多な社会を生きています。ネットやSNSにはとめどなく情報が溢れていて、検索すればだいたいのことはでてくる。

だけどそんな時代がゆえに、僕たちは信じたい情報だけを信じる傾向にあります。たとえばニュースサイトやストリーミングサービスも、ネット技術の発達に伴って個人が心地よく感じる情報のみをピックアップし、画面上に映すようになりました。

 

しかしそれは同時に似た視点の情報ばかりが身の回りに増えることを意味し、人々の世界に対しての見方を狭めることに繋がっていると考えます。

SNSやまとめニュースのタイムラインに流れるメディアやオピニオンリーダー(著名人等)の記事を、これが世の中の意見だと人々を誘導することでクラスタの意識をタコツボ化させ、何が自分たちにとって良くて何が良くないのかを決定させることも容易となるでしょう。

大衆への直接的なアプローチではなく、外枠を囲っていく、詰め将棋のような展開とも言えます。

 

個人の嗜好に合わせカスタマイズされたタイムラインが提供されたことで、クラスタの細分化が発生し、横断的な情報摂取よりも、縦断的に、"好き"の範疇を越えないテリトリーが築かれているのです。 

 

 

ポスト・トゥルースから話は多少飛躍しますが、こうした、強制的といっていいほどに人々を快適な環境に居座らせるウェブサービスアルゴリズムの関連性については以前から少なからず懸念を抱いており、情報の送り手となるウェブメディアに片足を突っ込んでいる自分には何ができるのだろうと、考える機会が何回かありました。

 

 

以前まで所属していたBoy.に関して言えば、政治や経済の情報を伝えるメディアではなく趣味に関連するものであったため、正直そこまで意識する必要はなかったんですけど。

とはいえです。すくなくとも、そうした趣味の分野においても、読者の感情を二極化させたくないとは考えていて。

 

いま世間でこれが流行っているから、聴く、着る、食べる、訪れる、という具合に。若者の行動はますます近似していき、スタンプラリーのように日々コンテンツを消費していく。そんな、決められた道を歩んでいる危機感を僕自身感じています。

 

 

そんな若者に対し、僕たちができることってなんでしょうか。

幸運なことに、僕たちメディアのメンバー(約20人)には一人一人色があって、ある程度の影響力を持っていて、自分の好きを熱く語れる者が多いんですよね。

この一人一人の集合体であるメディアとして、若者に対し情報を発信する。

 

僕たちはメンズノンノやポパイのように権威性があるわけではない。

けれど、好きを伝えたいと熱く語るその気持ち、なぜこれがいいのかを、同世代だからこその細かい空気感・感覚まで把握したうえでコンテンツ化し届ければ、きっと届くはず。

そうして、若者が自分自身に誇れる”好き”と出会う入り口・きっかけを作りたいと、そう考えています(戦略、戦術はここでは割愛)。

 

 

もったいないと思うんですよね。若者にはもっと好きになれるものがあるかもしれない。既存の価値観に埋没すべきではない。

1~3で決めた"好き"と、1~10まで知ったうえで決めた"好き"の質は違う。

きっと、数ある選択肢のなかで選びとった”好き”には自信が持てるはずです。自信を持つかっこいい大人って、多くの道を見て、たくさん失敗して、それでもこれだと思うものを見つけたから、きっといまがあると思うんです。

 

 

だからこそ。

 

18〜25歳とは、自分という存在・価値観を一番拡げられる時期ではないかと。やろうと思えば何にでも挑戦できるし、そこで意外な自分の可能性に気づける。

反対に大人とは確固とした自分自身を持ち、磨きをかけていく段階。そしてその大人とはまさに、いまの僕たち自身の延長線上にあるもの。

 

 

だとすれば、まだ確定していない”自分”を楽しんでほしい。

いまの好きに満足せずに、パーソナライズされた画面の外側を見てほしいと、そう思います。

 

 

少し拡大解釈をしている感も否めないですが(笑)、ウェブメディアに関わってきた人間として。

こうしたポストトゥルースの趣味的側面から見ても、好き嫌いの2つの側面だけで判断せず、様々なコンテンツに手を出してみたうえで、そのなかで選び取った自分の"好き"を嬉々とした目で語れる人が増えてほしいなと思います。

その一助に、これから僕たちが創る新メディアがなれれば幸いです。

 

バーティカルなメディアとして、プラットフォーム化を標榜せず、温度感のあるコミュニティ的側面を多分に持つイマドキなメディアを目指して、2018年、頑張っていきます。